猫をかぶる -我々は猫をかぶっているのか-


猫をかぶる

本性を隠しておとなしそうに振る舞う。(三省堂 大辞林)



さて、「猫をかぶる」とはどのようなことなのでしょうか。

と、書くといささかおかしなことを言ってるようにも思います。何故ならこのことわざは概ね上記に示したように定義されているからです。


さらに普段「猫をかぶる」や「猫をかぶっている」などと使うときも大体、先のような意味合いで使うと思います。



では、ここであるシチュエーションを想像してみましょう。



普段、家族や周りの友達等の前では活発で、たまにちょっとしたヤンチャなんかもしてしまうような特にコミュニケーション能力に欠けることのない人物がいたとします。ここでは仮にAとします。

Aはしかし初対面の人や好きな人が相手となるとわけが違うのです。

初対面又は好きな人を前にAはおしとやかに、クールに振舞います。

Aは普段の活発な姿を隠し、自らの姿、印象を美化させ、初対面又好きな相手が自分に対し好意を抱くように「猫をかぶっている」のです。



続いてのシチュエーションです。



普段、家族や周りの友達等の前では活発で、たまにちょっとしたヤンチャなんかもしてしまうような特にコミュニケーション能力に欠けることのない人物がいたとします。ここでは仮にBとします。

Bはしかし初対面の人や好きな人が相手となるとわけが違うのです。

初対面又は好きな人を前にBはおしとやかに、クールになります。

Bは普段の活発な姿が隠れ、自らの姿、印象が美化されます。初対面又好きな相手に対しBは緊張してしまい「猫をかぶっている」のです。


さて、二つのシチュエーションを書きましたがどちらもほぼ同じようなことが書いてあります。

AとBの違いを明確にするためシチュエーションは同じにしました。



ここで改めて「猫をかぶる」とはどのようなことなのでしょうか。



先のシチュエーションではAもBもコミュニケーション能力は人並みにあり、友達もいて、明るい性格の人物像です。

ことAの場合はそれらに加え、人によって態度を変えることが器用に出来ます。自分を美化させ好かれようとすることの能力が長けているのです。

しかしBの場合は一見Aと性格上変わらないかに見えますが、人によって態度が変わってしまうのです。Bは好きな人の前ではあがってしまい、大人しくなります。また初対面の人はあまり得意ではなく、これまた同じく大人しくなります。時間をかけて仲良くなるタイプですね。

このように見ればAとBはだいぶ違う性格の持ち主です。


しかし、傍から見れば、初対面、好きな異性、目上の人等、「態度が変わる」ことに関してはAもBも一貫していますし、「大人しくなる」ことにおいても同じです。

つまり三者目線ではどちらも猫をかぶっているというように理解されます。


たしかにAの場合は典型的といいますか、「猫をかぶる」にふさわしい行動と心理パターンだと思います。


しかしBの場合は行動として「猫をかぶっている」ようでも心理状態はAとは異なり、「猫をかぶる」という表現に違和感を覚える程度にまであります。



さて、では「猫をかぶる」の意味をもう一度おさらいしてみます。


「猫をかぶる」

本性を隠しておとなしそうに振る舞う。(三省堂 大辞林)


"本性を隠して"に注目しましょう。


Aの場合は、本性を隠しておとなさそうに振る舞う。という状況にかなり近いと思います。つまり「猫をかぶる」の純度が高いと言えます。


問題はBの場合です。

Bの場合はたしかに普段は明るくヤンチャであることが本性であるかもしれませんが、それと同時に好きな人の前で緊張してしまうことも、初対面の人が得意でないことも紛れも無い"本性"ではないでしょうか。


つまりBは本性のまま大人しくしている。

これは「猫をかぶっている」と言えるでしょうか。



私の意見をここに書くならば

Aは猫をかぶっている。

Bは猫をかぶっていない。

となります。



つまり「猫をかぶる」とは

"本性を隠しておとなしそうに振る舞う"ことを能動的に行う者に対して中傷する表現。


という風に言い換える(付け加える)となんだか良さそうな気がします。

そもそも"振る舞う"という言葉自体に能動的な意味合いが多く含まれているのですが、先ほども書いたように傍から見ればそんなものはわかりません。

つまり

傍から見ればAもBもおとなしそうに振る舞っているのですが、内心、能動的なのがAで、ある種受動的(という言葉が正確なのかわかりませんが)がBというわけです。




「猫をかぶる」の判断基準は正直難しいものだと思います。なぜならこの判断材料として、"対象者の本性"があるからです。

互いに深い仲だとしても人間の本性というものは根が深く、中々さらけ出すことも、見抜くことも容易ではありません。ましてやうわべだけの付き合いでは尚更です。





最後に別の切り口でこのネガティヴな表現について見ていきます。



ここまで「猫をかぶる」が使われる状況としては、「あいつ○○の前では猫かぶってるよなぁ」という具合にネガティヴなニュアンスが多分に含まれていると思います。


ポジティヴなニュアンスで「猫をかぶる」を使う人はほとんどいないと思われますが、ここでA界隈の方が次のように言うのは簡単に予想できますし、多くの人が耳にしたことのある、又はこんなような語り口を別の場面で見聞きしたのではないかと思います。



「たしかに私は猫をかぶるかもしれない。だけどそれの何がいないの?自分を良く見せようとして何が悪いの?自分を美化させたいって思って、その通りにすることは当然でしょ。」



そう。当然なのです。

しかし、往々にして「猫をかぶる」はネガティヴなニュアンスであり、実際にその現場を見た人が何となく面白くないような気持ちになることは確かだと思います。


これは「猫をかぶる」だけのことではないのですが、人は、悪いと思われていることを何かしらの妥当だと思われる口実でそれを正当化しようとします。


筆者は、自分を美化させ、良く見せようとすることを正当化だとも、そもそも悪いとも思わないのですが、「猫をかぶる」をネガティヴな表現だと重々承知した上で、答弁を垂れるのは"正当化"していると言えるでしょう。



「大学に入ってよかった。」

「大学院にいってよかった。」

「この会社に入れてよかった。」

「あのとき留学しておいてよかった。」

「あのとき遊んどいてよかった。」

「あのときの経験が今の自分を作ってる!」

   ……。


本当に「よかった」のかどうかは知る由もないですが、よかったよかったと自分の人生を振り返ることが最もらしい生き方のような言い方をする人は筆者の周りでも大勢います。




自分の人生までも正当化してしまう。

いや、人生にまで猫をかぶらせてる。




これは「人間の性(さが)」なのかもしれません。








最後に質問です。






あなたは猫をかぶっていますか?